「逃げる🏃♀️🏃♀️🏃♀️」
唐突ですが、この言葉を皆さんはどうお考えでしょうか?
マイナスなイメージって強いんじゃないかなと思います。私は強いです。
でも、必要に応じて私はめちゃくちゃに逃げてきて、生き延びてここまでいます。
「逃げる」という言葉が持つそのマイナスイメージがあまり好きではないので、最近は
「戦略的撤退」という言葉を好んで使っています。そっちの方が好き☺️🤞
そのお話を今回はしてみようかなと思います٩( 'ω' )و
初めて逃げたのがいつだったのか、もう覚えていません。
逃げるってどこから・どの基準でそう表現することが適当なのかも、私にはイマイチよく分かりません。
受験生の頃、母親が常にめちゃくちゃ不機嫌でヒステリーをよく起こしていました。
その度に自分の部屋に逃げて、当時ハマっていたボカロのロックなCD(↓)を爆音で聴いていました。
下の階のリビングからは両親の喧嘩をしているような声
自分からは、
なんでこんなに上手くいかないんだろうか
私がいけないんだ、私のせいだ
という自責と自己嫌悪の激しい声
嫌で嫌でたまりませんでした。
それを嫌なまま堪えることは当時の私にはできなかったので、音楽を爆音でかけて寝るのは割と得策だったように思います。何より曲がロックなのがよかった。思考がぐちゃぐちゃになって流せる。
↑トイレには流せるものだけ流しましょうね。🤦
大学生時代で、木工の実習に行くことが難しくなってきて、段々と座学の授業も遅刻や欠席が目立っていた頃にサボってやっていたことは、家でとにかく寝たり動画を見ることでした。
行かなきゃ、今日こそは行かなければならない
などを考えていても、身体と精神が思うように動かせないんです。
起きて、布団から出て、着替えて、ご飯を食べて、授業の準備などをして、玄関まで行って靴を履く
そんなにいっぱい作業できないんです。(元気なら簡単に出来ることも1つ1つ動作が重くなっていくというか、そんな感じのイメージ。)
その作業をするのに30分、今から動けば間に合う、でも行きたくない・もう少し寝ていたい・あとで素早く動けば間に合う
などを考えてて時間だけが過ぎてて、気付けば授業開始の時間にもなってて、
遅刻してまで行くのやだなぁ
の気持ちからサボって布団に戻る、というのを繰り返してました。
それも私の中では「逃げ」でした。
やらなきゃいけないこと、自分の中では義務だったのでそれの放棄
自責と自己嫌悪の声は、受験生の頃の比じゃないくらい大きくてうるさかったです。
その声を無視して動画を見続けることもできなくなったら寝てました。
寝るしかなかったんです。それしか、できませんでした。
料理を作る・買い物に行く・散歩に行く・部屋の掃除をする・課題をする
できること・やりたいこと・やらなきゃいけないことなど
たくさんありましたが、どの選択もできませんでした。とにかく簡単で、考える必要のないことばかりがやりたくて、それしかできなかったです。
それだけ、自分を追い詰めていたんだと思います。
当時はよほど仲の良い友だちにしかその話はできませんでした。大学の同級生はみんな頑張っていたので自分の辛さを吐き出せるほど私も強くなかったですし。
親は学費を払ってくれていて、その上一人暮らしをしている自分に生活費も送ってくれていたので、当然その辛さは話せなくて、そのお金の重さも十分に重くて辛かったですね。
一回学校の講義があまりにもつまらなくてその授業1回分の金額を計算して出したことがあります。
サボってた日に、その1日で○コマの授業をとっていたから、今日だけでこの値段分授業を受けなかったということか、と計算して自己嫌悪に拍車をかけた日もあります。(馬鹿かな??☺️🥺笑)
私の人生は逃げ続けてきました。
受験生の頃も大学生の頃も、就活の頃も今も。
でも今はその人生と「逃げた」という選択をし続けた自分に後悔はそんなにありません。
「逃げた」のは、それだけ辛く苦しい状況に居たという証
その辛さや苦しさに立ち向かう人たちは立派です。素晴らしいです。尊敬してます。
でも、私はその選択はできませんでした。
なんで他の人たちみたいに頑張れないんだろう
なんで私はこんなにダメなんだろう
何十回と考えてきましたが、そうして自己嫌悪しても答えは見つけられませんでした。
↑旧約聖書に登場する、ペリシテの巨人ゴリアテとそれに投石器で立ち向かう羊飼いダビデのイラストです。
......だそうです。立ち向かう人は誰しも勇敢でカッコいいです。
ダメなことはダメだし、苦手なものはいくら努力をしたって苦手なままでした。
それを好きで楽しんでやっていける人たちに、自分のちっぽけな努力や覚悟で立ち向かうことはできませんでした。
ものづくりなんて、なおさらですよね。
材料選びから道具の手入れ・アイディアや構想練り・加工・失敗・完成など
好きな過程が少ないと、結局続けられないのです。・゚(´Д⊂)゚・。(少なくとも私の場合は。)
ブログでは考えたことを
文字にして・画像を入れて・見直し・カテゴリー分け・投稿・宣伝・アクセス数の確認など
そこから次に何を記事にしようかな〜とか考えることいっぱいありますが、どれも楽しい作業です。
伸び悩んだ記事を「失敗」とするなら、そうした記事は数多くありますが、
それの何がいけなかったか・伸びている記事の何が良かったか・どうしたら良い記事を書けるか・私の目指すものとは
などなど考えていることも私にとっては楽しくできていることです。
(「失敗」なんてほとんど考えずに今はとにかく数を打ってるんですけどねヽ(゚∀゚)ノ でも、ごくたまーに分析してみたりもしてますよ、一応。)
自分の短所をいかに直すかに立ち向かうより、自分の長所や得意分野を全力で頑張っている方が私にとっては心地よく過ごせるから、そうした選択をしています。
私にとって「逃げること」は生存戦略です。
強い敵に弱いままの装備で向かっていって、コテンパンにやられることを「賢い」と言えるでしょうか?
弱いなら弱いなりに考えるのです。人間だから、考えることが出来るのです。
本当にその敵と戦う必要があるのか、勝ち負けの決着は必要なのか
勝つためには、装備を揃えたらいいのか、自分がムキムキマッチョ💪になるのか
話し合いで決着をつけるのか、なんなら味方にするのか
弱い者たちを山ほど集めてスイミーのように倒すのか
私は「戦略的撤退」という言葉が好きですね。
好きだけど苦しい・辛いなどの相反する気持ちを抱えている人が多いです。
そんなときに戦略的撤退のアドバイスをします。
好きだからって物理的に距離を近く詰めておく必要はないし、距離を離したことで見える景色も確かにあるのです。
まぁ「好き」の気持ちじゃなくて、単純に「嫌い・苦手」という気持ちでも、撤退すればいいのです。
それはある人や関係者や一般的な考え・自分から見たら「逃げ」かもしれませんが、
辛さや苦しさ・死にたいくらいの自己嫌悪を出している自分から見たら「戦略的撤退」なのです。
逃げたっていいのです。それで死ぬことはありません。
辛さや苦しさの良くないエネルギーや感情をもつ自分のことは責めない方が良いに決まってます。
そうした感情やエネルギーを「嫌」と思うのは動物として自然の反応で「自分に合っていないんだよ」と、自分では気付けない無意識が表面化している証拠なのです。
それと向き合って受け入れて、やめることを選んでも、誰もあなたを責めることはできないのです。
自分の自由は自分で手に入れるのが良いです。
たとえ家族や友人や会社の人などの近い人がなんて言ってきたとしても。
法を犯さないようにさえしていれば、何をやったって自由だと思うんですよね(。-∀-)
↑無意識と意識を分かりやすく描いてみた図。意識はこれだけうっすらしてますよ、ということを授業でも習った気がする。文字が見づらかったらすみません。
話があっちゃこっちゃいってしまうのは、それだけ主語の大きな話をしているからだと思うので、まとまっていないですが許してください( ノД`)上手くまとめるの難しいよ〜
就活などの「正社員として働く」ことへの逃避(トラウマに近い)話もあるので、それもいつか記事にまとめますね。お楽しみに٩( 'ω' )و
読んでくださってありがとうございました!
またね🌙
03.23.14:00くらい
03.23.20:32